| 早いもので、34年間いたフジテレビをやめる決心をして1年たった。
番組制作現場からライツ開発局アーカイブセンターに異動になって3年半。今までの自分を見つめ直してやっぱり、大学生のときからの夢、テレビ番組を作りたいとの思いが忘れられず、独立しようと思ったのが昨年の5月のこの頃だった。定年まで3年弱を残して会社をやめる事に不安はなくもなかったが、一度きりの人生、やりたい事をやってやり通したいそんな思いだった。
ライフワークにもなったお笑い芸人を育てる佐藤塾、開校して1ヶ月が経つ。特別講師の先生方も皆な快く引き受けてくれた。あの高田文夫先生とは長い付合いだ。同い年という事もあって公私共に仲良くさせていただいている。毎年、仕事始めは共にフジテレビで「初詣爆笑ヒットパレード」であり、ビートたけしレギュラーの「お笑い大集合!」(1980年)では毎週ツービートの漫才台本を書いてくれた。
夏休みには私の妻の実家の館山に、三遊亭小遊三親子と共に合宿したし、韓国にプロ野球ができたと言えば、八方、小遊三、吉川潮氏などと野球観戦ツアーを組んで見に行ったりとか、「オレたちひょうきん族」「らくごin六本木」「タケちゃんの思わず笑ってしまいました」等一緒に楽しい番組を作って来た。
そんな友達が皆な快く協力してくれている。高平哲郎先生もその一人だ。1979年の「キャンディットカメラ」という番組で初めてタモリと仕事をしたときの構成作家が彼である。
その後タモリ司会の「爆笑スタジオ1980〜雨に笑えば〜」で再会し、「笑ってる場合ですよ!」「オレたちひょうきん族」と続いて、今や最長寿番組となった「笑っていいとも!」を立ち上げるときには彼の家でプロデューサーの横沢彪氏とディレクターの大野三郎氏と4人で麻雀をやりながら番組タイトルを考えて「それロンしてもいいかな?」「いいとも!」と言い合いながら付けたタイトルが「笑っていいとも!」である。1982年の夏の話である。
大岩賞介先生とは1980年「THE MANZAI」を作るときだった。私とディレクターの永峰明氏との構成企画会議で番組タイトルを何にしようかと考えていて、発注は「東西漫才大会」だったものを「ザ・マンザイ」に変え、美術プロデューサーの助言もあって「THE
MANZAI」と決めたのも大岩先生との会議であった。それが80年代のマンザイブームを興こしたのである。
我が佐藤塾は1ヶ月が過ぎ、塾生達も目の色と顔が変わってきた。発言する言葉も大きな声ではっきりしてきた。世の中的には五月病と言われている季節だが、我が塾生には関係ない様に思われる。頼もしい限りである。
○ おまけ〜私が今ハマってるもの〜
オールディーズである。
7月23日日曜日にフジテレビで放送する「テケ・テケ・ア・ゴーゴー〜おやじバンドコンテスト〜」を制作するために今準備に入っている。観たい、踊りたい人は6月25日日曜日にお台場のSDM(スタジオドリームメーカー)に来ると参加できるよ。
仕事終わりに毎日立ち寄るのは銀座7丁目にあるMUSIC PUB ルイジアナママ。
懐かしくて涙が出るほどである。興味のある人は一度行ってみるといい。1960年代にトリップしますよ。
(ルイジアナママ 03-3573-8830 中央区銀座7-3-13ニューギンザビル1号館2F)
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